文字サイズ: 小 中 大

ワーキングプア−−日本を蝕む病−−

text by

小泉龍司

2008.02.19

 一昨年、「NHKスペシャル」は2回にわたり、日本に深く進行する新しい貧困の問題を取り上げた。
「ワーキングプア−−働いても豊かになれない−−」(2006年7月23日放映)
「ワーキングプアⅡ−−努力すれば抜け出せますか−−」(2006年12月10日放映)

 また昨年秋には、第3弾として「ワーキングプアⅢ−−解決への道−−」が放映された。
 3回の放映は全国的に大きな反響を呼んだ。
 「ワーキングプア」という言葉、そしてその悲惨な新しい貧困の実態が広く認識されるようになったのは、この番組の放映以降のことである。
 「ワーキングプア」とは「働いて得られる収入が生活保護水準を大きく下回るのに、生活保護を受けていない人」を指している。

 この取材に関わったのは、日々の事件や社会事象の中で、「日本の社会の奥底で、何か大きな地殻変動が起きていることを実感していた」警視庁記者クラブ担当のNHK社会部の7人の記者たちであった。
 彼らは全国を駆け巡り、ホームレス化する若者、生活が崩壊した地方、グローバル化の波に晒される中小企業、死ぬまで働かざるを得ない老人、夢を奪われた母子家庭/父子家庭、の過酷な労働実態に「衝撃」を受ける。
 「それまで私たちは、フリーターやニートと呼ばれる若者たちは、学生時代の延長のようにモラトリアムな生き方を自ら選択した人たちだと勘違いしていた。しかし、働きたくても働く場がない――この単純ではあるが、厳しい現実を知った時、大きな衝撃を受けた。若いんだから、やろうと思えばどんな仕事でもできるはずだ、仕事を選ぼうなんて贅沢だ、と考えていた。だが現実は全く違っていた。本当に仕事がないのだ。それにも関わらず、彼らは仕事をしていない自分を責め、世間の冷ややかな視線に耐え、厳しい労働環境や苦しい現実を訴えることすらも諦めている。」

(注)2006年の調査では、正社員ではない派遣やアルバイト(非正規雇用)で働く人は1,677万人。2007年に入ってからも増え続けて1,700万人を超え、全雇用者の33%(3人に1人)に達している。

 彼ら取材班は、IT技術さえ持って入れば億万長者になれる国で、工場で朝から晩まで額に汗して働いても日々の暮らしもままならない、というのは何かが間違っているのではないだろうか?国も企業も何か大きなものを見失ってはいないだろうか?と我々に問いかける。
 自助努力が足りないので貧困から抜け出せないのだという人もいる。
 番組の取材を受けた二人の子供を育てている母子家庭の母親は、二つの職場を掛け持ちするという生活を送っていた。帰宅は毎日午前2時。睡眠時間は4時間。「大丈夫じゃなくても子供たちのため、やり通さなければならない」と語るこの母親に、「まだ自助努力が足りない」と誰が言えるだろうか?

 「ワーキングプア」の背景には、(1) 労働規制の緩和(派遣労働法の改正による派遣の自由化)(2) 社会保障・福祉のカット(児童扶養手当のカット・介護保険法改正による食費・部屋代の自己負担など)(3) アジア(特に中国)からの安い商品や労働力の流入など、複数の要因がある。

 そして「ワーキングプア」の最も大きな問題点は、真面目に働いても生活保護水準以下の所得しか得られない人がどれぐらいいるのか、今もって正確に把握されていないことである。
 その中で「ワーキングプア」は、人間の尊厳を奪われていく。さらに厳しい生活環境の中で、進学や就職が難しくなり、貧困の連鎖が起こり、「ワーキングプア」が世代を超えて固定化される恐れがある。また、生活に追われ年金保険料が払えない多数の若者をこのまま放置すれば、近い将来、大量の無年金者を社会が抱える恐れがある。そしてやがては社会全体の秩序やモラルが破壊される、いや既に破壊が始まっているのである。

 日本国憲法第25条(生存権、国の生存権保障義務)
 「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 資本金10億以上の企業の利益は30兆円を超え、バブル期の2倍の水準に達している。この経済大国日本において、この生存権が守られているのか?鋭くかつ本質的な問題提起である。

 現代日本の政治と社会の暗黙の基本原則になってしまった感のある「自由競争」や「自己責任」という考え方は、誰もがいつも健康で自分の力だけで生きられるという「幻想」の上に成り立っているのである。
 現実の生活の中でこの「幻想」は、いとも簡単に崩れていく。その時、「幻想」の上に作り上げられた制度や政策は、それらの人々を救い上げることはできない。それらの人々とは、誰のことでもない。すべての人が明日その当事者になり得る−−「老いること」「病気」「離婚など家族の離散」によって。
 社会的経済的勝者が「自由競争」や「自己責任」を振りかざし濫用することを戒め、人が自分の力だけで生きていけるという「幻想」の先にある、人が生活し生きていくことの「実像」に、しかと目を凝らすこと、それが今、厳しく政治に求められている。