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民主党代表選挙に思う(その2)―否定する政治から構築する政治へ―

text by

小泉龍司

2010.09.10

1.政治は何かを否定する時に大きな求心力を得ることができる。
 だからこそ、先の論稿で述べたように、常に「古い過去」を否定して浮上しようとする。
 そしてもう一つ、政治が求心力を得る方法として常用するのが、「悪者」=「犯人」を見つけ出し(あるいは作り出し)、これをたたくことである。
 かつての自民党は「郵政」を悪者にしてたたき、民主党は「コンクリート」を悪者にしてたたく。みんなの党は「公務員制度」をたたく。
 もちろん、それぞれに政策的に正しいと考えられる要素は含まれているが、しかし一方で、政党には何かをたたいていたいというインセンティブが常に働いていることも事実である。たたく側に回っておけば、自分がたたかれずに済むという防衛本能も働く。
 政治学者の丸山眞男氏は、かつて、こうした日本の政治風土を批判を込めて「引き下げデモクラシー」と名づけた。
 もちろん、社会を正していくためには不正者をたたくことは非常に重要である。
 しかし十分に気をつけないと、いつしか「たたく」ことが自己目的化しかねない。政治の底流にはいつもそうした力学が働いていることは、冷静に見極めておく必要がある。


2.さて、1990年代に日本の経済が失速して以来、繰り返し財政金融政策が動員されたが、経済は今日まで安定的な成長軌道に戻れずにいる。それはまさに、経済失速の本質を見抜けず、有効な手を打てなかった「政治」の責任であるのだが、政治は自らがその責を負わされることを避けるために、日本がうまくいかなくなってきたのは「こいつのせいだ」という形で、責任を追及すべき「犯人」を仕立て上げる方向へと動いていった。
 その犯人が不当に貯め込んでいる利得を取り上げ、国民に還元することができれば、国民の苦境も救うことができる、というストーリーがこれに付加される。
 郵政民営化の議論はまさにこの構図の上に乗っていた。
 規制緩和も同じ理屈によって国民に支持されてきた。
 (自分が属する業種・業界以外のところで、)「規制による保護」によって不当な利得が貯め込まれているのではないか、という疑念から、自民党政権下で、規制緩和や郵政民営化は支持された。
 しかしながら、規制緩和によってはがされ、経済的強者によって吸い上げられたのは、中小商店や労働者など、弱い立場の人々の利得であった。
 また、郵政に税金は投入されておらず、又、郵貯資金が国債マーケットに放出されていることでその分国債金利が下がり、その結果、銀行の貸出金利も下がっているのであるから、民営化しても当初説明されていたような恩恵は国民には生じなかった。
 今度はこれを見てとった民主党は、「犯人=不当利得者たたき⇒国民に恩恵」の図式のうちの後半部分に焦点を当ててマニフェストを作った。
 すなわち、予算組み替えと無駄遣いの排除という形で悪者=不当利得者はあまり特定せず、自民党ができなかった「国民に恩恵を」の部分を確約し、これが奏巧し政権を握った。
 しかしながら、実際にはがせる不当利得は事業仕分けをやってみたがそうはない。はたと困ってしまった。
 今度はこれを見てとったみんなの党が、「公務員こそ日本がうまくいかなくなった犯人であり、そこに不当利得がある。」と旗を挙げ、参議院の議席を増加させた。
 みんなの党の指摘していることは確かに妥当と思われる点がある。
 (そして、公務員制度改革に踏み込んでいくためには、国会議員自らが歳費を削減する必要がある、というのがかねてよりの私の持論である。)


3.しかしである。
 この10年、日本の政治が終始してきたこの「犯人探しと悪者たたき」だけで、本当に国民を幸せにすることができるのだろうか?    
 そうではないと、私は思う。
 不当利得者を探してたたくことは正しい。しかし、不当利得者が、全体がうまくいかなくなったことの「犯人」ではない。その「真犯人」は「政治」である。
 また、不当利得者が国民全体を養えるだけの利得を貯め込んでいない限り、不当利得を取り上げるだけでは、決して国民を幸せにすることはできないのだ。
 ただ、国民の意識面においては、次に述べるように、かつての縦割りの生活保障システムの後遺症が残っている。そしてそのことが、政治を「犯人探し」に向かわせやすい土壌を作り出している。
 かつての日本型の生活・雇用保障システムは、全体の仕組みが一つの明確な理念の下に作られたわけではなく、個々の業界毎の利害調整の結果として形成されてきた仕組みであったため、明確なルールがなく、政治・行政の持つ裁量権に大きく依存していた。
 従って、そもそも政治・行政や他の業界の不正や利得に対して、不信感が生まれやすい要素があった。
 90年代以降、各業界における従来の生活・雇用保障システムが次々と機能停止する中、規制や補助金などにより、相変わらず保護されている他の業界には過大な利益が生まれているのではないか、との不信感が急速に増大し、これが規制緩和や民営化を求める世論の背景となっていった。また、そこに裁量権をふるう政治や行政=公務員への不信感も増大していった。
 都市部から起こってきた「公共事業悪者論」(これは「コンクリートから人へ」という形で、そのおいたちは都市型政党である民主党に引き継がれている)も、そうした構図の中で地方に注がれた視線の中から生まれてきた。
 日本人はその利害が共通する同一の「市民」としてではなく、業界毎の「業界人」として、縦割りの生活・雇用システムの中で守られてきた。そのため、どうしても横の連帯意識は薄く、その意識が他業界の不当利得者探しに向かいやすい面がある。


4.以上のような過去及び現在の状況を踏まえた上で、今、政治が取り組まねばならないことは、次のように要約される。

(1) 過去をただ否定するのではなく、かつての日本はなぜ一応の安定性を保ちつつやってくることができたのかを、まず冷静に分析すること。
(2) 政治は「犯人探し」に逃げ込まず、自らの責任を果たすこと。すなわち、日本を立て直す「新しい仕組み」作りをこそ競い合う、政党政治を実現すること。
国民の側は、不当利得者たたきが政治の一種の「アリバイ作り」に利用されていないかという視点からも監視すること。
(3) 経済のパフォーマンスを維持できなくなった構造的な要因の中で、大きな比重を占めるのが、「少子化⇒高齢化⇒人口減少」というサイクルが進んでいる人口動態の状況である。
少子化は1970年代に始まり、それが90年代に高齢化社会をもたらし、そして遂に2000年代から人口減少が始まった。
人口減少に先立って、生産年齢人口(15~64歳)も減りはじめた。
従って、需要と供給いずれの面からも、経済のパフォーマンスは悪くなっていく。
経済パフォーマンス維持のために「少子化対策」を考えることは本末転倒だが、より生活しやすく、より働きやすく、生活と雇用の仕組みを整えることができれば、出生率の低下に歯止めがかかることは間違いない。
新しい日本型の生活・雇用の仕組みを作ることが、経済パフォーマンス低下の最も大きな原因となっている要素を緩和していく、最も確実な「成長戦略」にもなるのだ。
こうした意味で、「少子化対策」を政策の基本に据える必要がある。
この「少子化対策」は、単に現金や公共サービスの支出だけではなく、働き方(ワーク・ライフ・バランス)、所得再分配のあり方、男女共同参画、家族観のあり方などにも深くかかわってくる。
そして、最も深く生活・雇用保障のあり方とかかわってくる。
端的に言えば、日本の「社会」のパフォーマンスを上げることが、少子化対策の本質なのである。 我々はこれまで、経済のパフォーマンスを上げることを基本的な政策目標としてきた。しかしながら、「社会」のパフォーマンスを上げることが人々の幸せにつながる、そしてそれが経済のパフォーマンスを上げることにもつながるということに気づくべき時に来たのである。


 こうした点を踏まえ、今後の日本を導いていく新しい「生活保障の仕組み」を作ることを最優先の政策課題としなければならない。
 誰か(郵政・公共事業・公務員)を犯人にして、それを取り押さえれば問題が解決する程、日本は簡単な状況ではない。
 自公政権を否定し、政権交代すればうまくいく程、簡単な状況ではない。
 民主党の代表=総理を変えれば、うまくいく程、簡単な状況ではない。
 それらはすべて「手段」だ。
 「目的」は国民の苦境を救うことができる、少なくともそれを和らげることができる、新しい「生活・雇用保障の仕組み」を構築することに尽きる。
 まずその構想を国民に示すことが、政治に課された最大の使命である。
 この10年、「政権交代」も含めて繰り返されてきた「否定の政治」ではなく、「構築の政治」に進むべき時が、今、来ている。