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民主党代表選挙に思う(その4)―「政治主導」はあくまで「手段」であり、どういう国を作るかを訴えねば意味がない―

text by

小泉龍司

2010.09.15

1.民主党代表選挙の結果、菅首相の続投が決まった。
 投票権を行使したのは、民主党の党員、サポーターだけであったが、過熱気味の選挙報道の中で、多くの国民も、一度は「菅さんか小沢さんか?」その選択に思いを巡らせたに違いない。
 しかし、今日振り返ってみて頂きたい。(政治とカネの問題は別として)「政治理念」(政治家として追求する、どういう国にしたいかという主張)と「政策」(その方法としての経済政策、社会保障政策、財政政策、外交政策など)という次元において、「菅さんまたは小沢さん」を選択することは、我々にとって何らかの「政治理念」や「政策」を選択することであったのだろうか?
 答えは「NO」である。
 暑い陽射しの下での街頭演説を聴いても、昨日の国会議員投票直前の演説を聴いても、お二人が訴えていたことは、詰まるところ「官僚主導を打破し、政治主導にする」ということだけであった。
 「政治理念」や「政策」が本気で語られることはなかったし、演説の背後には、時間の制約の中では全部を語りきれない、こうした「政治理念」や「政策」がきっと隠されていると感じる場面もなかったと思う。
 だから、代表選が決着して一夜明けても、我々は(正確には民主党が)「何かを選択した」という晴れ晴れとした感覚は、生まれてこない。


2.当然である。
 「政治主導」はあくまで「手段」であり、「目的」ではない。にもかかわらず、それがあたかも政治の最高目的であるかのように繰り返し論じられても、国民は一応納得はするが、「スッキリ」はしない。
 政治が「政治主導」を目指すのは当たり前のことであるし、政治が「政治主導」になっていないならば、それは政治に責任がある(政治がサボっている)のであって、国民に訴える前に早いとこ、それを実現すればよいだけの話である。
 「まだ実現できていません。申し訳ありません。」と演説するなら分かるが、「(これまでサボっていたことをこれから)頑張ります。」と言ってみても、それは本来、演説にはならないはずである。
 それを繰り返し主張するのは、結局「官僚」を悪者にして責めて、自分(政治)は責任から逃れているだけの話である。
 残念ながら、先の論稿で述べた「否定の政治の土俵」から民主党代表選挙は一歩もステップアップできなかった。


3.混乱と迷走を続ける日本。
 社会の不安と経済の停滞から脱する道が見えない日本。
 今求められているのは、「政治主導」という便利な「逃げ道」(言葉)ではない。理念を掲げ、問題の本質に切り込んで、具体的に進むべき道を示す政治の気概と勇気である。
 菅内閣に課され、国民が期待する使命はそこにある。恐れずに真のメッセージを発してもらいたい。
 民主党のこれまで(昨年と今年、衆参選挙時)のマニフェストを突き破り、真に国民が納得する、選挙対策ではない政治理念と政策体系を示してもらいたい。