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尖閣沖衝突事件 ―日本が失ったもの―

text by

小泉龍司

2010.10.04

1.政府は、中国人船長を処分保留のまま釈放したのは、あくまで検察の判断であるとしているが、国民は誰も信じていない。
 そのことは後に述べるが、いずれにせよ、漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりし、ともすれば沈没したかもしれない悪質な事案だからこそ、海保は公務執行妨害容疑で船長他を逮捕した(参院・外交防衛委員会における前原外相答弁)。証拠として、衝突の模様を撮影したビデオもある。
 しかし、船長が容疑を認めず、さらに取り調べを行う必要があったために、検察は拘置期間の10日間延長を裁判所に請求したのである。
 しかし、中国政府から様々な圧力を受けた結果、(それが政府の判断であろうが検察の判断であろうが、いずれにせよ日本国として)「日中関係を考慮して」刑事手続を中断して、被疑者を逃がしてしまったのだ。
 法治国家としての基本原則を放棄したのである。


2.何故、そう判断したのか?
 外国(中国政府)が騒いだからである。
 親元の外国政府が騒いで圧力をかければ、日本は刑事法の適用と執行を中断し、釈放する、という前例がここに生まれてしまった。 日本は150年も時代をさかのぼり、幕末~明治の「不平等条約の時代」に戻ってしまったかのようだ。
 「法治国家」という国家の最も基本的な原則すら守り通すことができない国、圧力に屈するひ弱な国、という国際評価は、日本の外交にこれからずっと尾を引いていくおそれがある。
 対中国だけではないあらゆる外交交渉において、日本は足下を見られ、譲歩を迫られることになるであろう。


3.日本は、かつての古い歴史の中では「辺境国」であった。「中華」を中心に外来の文化や技術に適応することにより生き延びてきた。従って、「基本原則」であっても、目先の対外適応のためには、時としてこれを曲げることを厭わない習性が身についてしまっている。そのことによって生き延びてきた、という国家としての成功体験もある。
 しかし、今や日本は「一辺境国」ではない。もはや、目先の短期的利益を繋いで生きてゆくことなどできない大国である。むしろ、その場凌ぎの妥協をすれば、諸外国からは原則を守り通す意思力がない国と見られ、以後様々な外交交渉において「国益」を失うことになるであろう。


4.こうした目先の妥協と長期の国益を、政府は厳密に比較考量したのだろうか?
日本人は、あるいは日本という国は、確かに目先の適応能力(トラブルを収める能力)には優れている。しかし、諸外国との厳しい折衝の中で、真の国益を保持するためには、長期の戦略的思考が必要である。
 「戦略」という言葉は、なんだか人をわかった気にさせる便利な言葉だが、「戦いを略す」ということに本当の意味がある。つまり、「何かを得るために何かを捨てる」。もっとわかりやすく言えば、「何かを捨てることにより、大きな目的を達成する」という「やり方」である。裏返せば、戦略の失敗とは、「小さいものを得ようとしたために、より大きなものを失う」状態である。
 今回、日本は明らかに戦略の失敗を犯した。
 目先の妥協によって、本来の「国益」を失った。
 今、多くの国民はそのことを自らの「体感」として感じ取っていると思う。


5.では、「日本国」の誰がこのミスを犯したのか。
 仮に政府の弁明のとおり、検察が判断したのだとしても、その報告を聞いて政府が「了とした」のであるから、責任は政府にある。
 しかし実際には、政府は極力自らの責任を逃れようとして、あくまで基本的判断は検察が行った、との弁明を繰り返している。
 ここには重大な問題がある。
 検察庁法14条に基づく法務大臣による検事総長への指揮権の発動(刑事事件への内閣の介入)が、国民の目の届かないところで秘密裏に行われた可能性が高いからである。
 多くの国民はそう思っている。
 戦後に指揮権が発動されたのは1回だけ、1954年の造船疑獄事件で法相が指揮権を発動し、佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を阻止した事件である。
 以来、指揮権の発動は、政治的な「タブー」になってきた。
 しかし、実際に内閣が刑事事件に介入するのであれば、そのことを「指揮権の発動」として、当然明示しなければならないはずだ。 さもなければ、国民は、いつもどこか見えないところで、内閣(政治)が公正であるべき刑事手続に介入しているのかもしれない、という疑念をもつことになる。
 今回のような明示的な指揮権発動がない政治の介入を許していいのか?ここにも「基本原則」に緩い日本人の特性が現れている。
「基本原則」を曲げることにより、政府や刑事手続きの公正性に対する国民の信頼、という、目には見えないが、国家の根幹をなす信頼基盤が侵食されていく可能性がある。


6.以上述べた2点において、今回の中国への妥協により、我々が失い、また失おうとしているものの大きさを、改めて深く認識する必要がある。